新・渡航医学の話

2011年 9月

 

助手:

博士、”とこういがく”、ですか? どんな医学なんでしょう。

博士:

狭義には「海外旅行者の健康問題を扱う医学」、広義では「国際間の人の移動に伴う健康問題や病気を究明し予防する医学」と定義できる。

助手:

江戸時代じゃないんですから、公儀って堅いですが、要は海外旅行者のための医学、ということですね。

博士:

広い意味という広義じゃ。海外で遭遇する疾病は国内にいる場合とは異なる。従って、対象者は海外旅行者、長期滞在者、出張者などが中心となる。しかし、近年人の移動は日常的であり、島国である日本でさえも、多くの渡航者が訪れており、そういう意味では土着の住民にも関係する医学ということになる。

助手:

なるほど。鳥インフルエンザなどもそうでしたが、輸入感染症があるので、旅行しないで日本だけにいる人にも無関係ではない、ということですね。

博士:

いい指摘じゃ。”輸入感染症”は、古代からある※。例えば、日本に結核が入ってきたのは弥生時代、梅毒が入ってきたのは16世紀初めと言われている。それまで日本になかった病気じゃから、一気に感染が広がった。

助手:

そう言えば、梅毒はコロンブスがもたらした、と聞いたことがあります。

博士:

はっきりしていないことも多いんじゃが、梅毒は、コロンブスが第一回航海でアメリカ大陸、具体的にはハイチから帰国後にヨーロッパにもたらした、と言われている。欧州で大流行し、その後大航海時代の波に乗り、16世紀には中国に伝達されたとのことじゃ。

助手:

この手の性感染症は広がりが早いですね。

博士:

うむ、エイズしかりじゃな。他、この大航海時代に初めて問題になった病気に壊血病(かいけつびょう)がある。

助手:

大相撲協会の会長ですか?

博士:

?? それは、魁傑、放駒親方じゃ。壊血病というのは、ビタミンC不足による出血性の疾患じゃ。大航海時代には原因が不明であったため、バスコダ・ガマのインド航路では180人中100人が、この病気のために亡くなったと言われていて、海賊よりも恐れられていたとの記述もある。

助手:

そんな病気があったんですね。それで、どうして原因がわかったんでしょうか?

博士:

英国海軍軍医であるジェームズ・リンドが、食事環境の良い高級船員に発症者が少ないことに注目し、新鮮な野菜や果物(みかんやレモン)を摂ることにより予防できることを発見したのが1753年であり、その後壊血病が少なくなった。世界一周なども実現できるようになった。実際にその成果を生かして壊血病による死者を出さずに初めて世界周航を成し遂げたのがキャプテン・クックと言われている。

クックの肖像画 ロンドン海軍博物館

 

助手:

キャプテンハーロック、って知っています。確か、松本零士さんのアニメの主人公で・・

博士:クックじゃ!! 正式にはジェームズ・クックという名前の英国海軍士官で海洋体験家じゃ。
助手:知ってますよ。久しぶりにボケたくなったんです。それにしても、そんな歴史があるとは知りませんでした。なるほど、キャプテン・クックの大冒険の影に、渡航医学あり、ということなんですね。

博士:

その後植民地時代の到来となり、アフリカや東南アジアでの熱帯での暮らしをするようになった欧州人によって、熱帯病の研究などが盛んになった。熱帯医学は、今だに渡航医学の重要な分野の一つじゃ。

助手:

今でもマラリアなどの熱帯病で我々も苦労していますから、当時はさぞたいへんだったでしょうね。病気の原因、治療法もわからなかったでしょうし。

博士:

うむ。マラリアも、蚊が媒介することがわかったのは19世紀後半じゃし、それ以前は、沼地から発生する毒の空気がもたらすなどと思われていた。その後、近代に入ってから国境をまたぐ戦争が増え、疾病対策が重要な位置を占めるようになっていった。

助手:

戦争で病気が関係するのですか? 兵士の健康問題、でしょうか?

博士:

そうじゃ。当時は、戦争そのもので亡くなる数よりも、病気で亡くなる数の方が多かった。従って、いかに兵士の数を保ち、戦える状態にしておくか、栄養学や疫病対策が勝敗の分かれ目となった。これは軍陣医学と呼ばれる渡航医学の一分野じゃ。

助手:

なるほどね。戦争に勝つために医学が発達した、という面があるのですね。

博士:

科学や技術の進歩に戦争が果たした役割は大きい。そして、近年、娯楽としての海外旅行者が急増した。飛行機などの交通機関の発達もあり、世界中どこにでも人は移動するようになった。最新の世界観光機構※のデータによれば海外旅行者の数は、2010年の前半だけで4億2千万人とのことじゃ。

助手:

凄い数ですね。年間にすると8億人以上が世界中を旅行している、ということですね。日本人の統計はありますか?

博士:法務省入国管理局※によれば2010年の邦人旅行者数は1664万人。さらに外務省海外在留邦人数統計※によれば、在留邦人の数は約113万人じゃ。これだけの人が、常に海外に出ていることになる。

助手:

それだけ外国にいれば、病気になったり、あるいは病気で死亡するケースも多いんでしょうね。

博士:

正確な数値は不明じゃが、外務省は、毎年の邦人援護統計※を発表している。これは、海外にある大使館や総領事館が旅行者や在留邦人の援護を行ったケースのまとめなんじゃが、これによると2010年に援護を行ったケースは全世界で17,515件、人数で言うと19,882人となっている。窃盗などの被害に遭ったケースが一番多くて4分の1を占めるんじゃが、疾病についての援助も5.1%(892件)と少なくない。また、全てが把握されているわけではないが、死亡例は647人で、うち病気によるものは336人で約半数を占めている。

助手:

毎年ずいぶんな数の日本人が病気で亡くなっているんですね。

博士:疾病死亡とは別にカウントされているが、自殺で亡くなった方も59人、と少なくない。海外ではメンタルヘルスの問題も大きいんじゃ。

助手:

海外では日本には無いストレスもありますからね。でも、そうすると、一口に渡航医学といっても扱う範囲は広いですね。

博士:

そうじゃ。内科学や外科学はもちろん、古典的な熱帯医学、感染症医学、検疫医学に加え、精神医学、さらに飛行機での移動に関する航空医学、また災害医学などもカバーされる。

助手:

そうか。今は、日本がたいへんな状況ですが、世界のどこにいても自然災害やテロに巻き込まれる可能性はありますからね。

博士:

さらに、近年特に日本がそうじゃが、高齢者の旅行が増加しているので老年医学の知識も必要になる。ここ10年間で旅行者数全体の増加は60%程度じゃが、60歳以上の増加は140%じゃ。先ほど示した在外公館の邦人援護においても、疾病については約4割は60歳以上の高齢者が占めている。

助手:

60歳以上っていっても、まだまだ元気で、且つ時間と経済的にも余裕があるので、旅行に出る人が増えたんですね。

博士:

確かに良いことではある。戦後の日本の復興を支えていただいたご高齢者は、若い時は旅行する間もなく働き詰めだった方が多いから、是非、人生を謳歌していただきたい。ただ、高齢になれば、持病を持っていたり、あるいは元気そうに見えても体力が落ちていることは確かじゃから、十分に注意して旅行していただきたい。
助手:
そうですね。特にアフリカなど途上国の場合には、医療レベルが低いので、何かあった時に取り返しがつかなくなることが起きますからね。
博士:

いい指摘じゃ。そのためにも、旅行に出る場合には、緊急移送を含めた十分な額の旅行傷害保険に予め加入していただきたい。

助手:

備えあれば憂いなし、ということですね。具体的には、いくらぐらい入っていれば安心ですか? 途上国は医療費は高くないので300万円位で十分ですか?

博士:

確かに例えば当地で入院したとして300万円になることはない。しかし、当地での医療が不適当なケース、実際骨折や虫垂炎の手術などかなりのケースがそうじゃが、その場合は南アフリカに移送されることになる。そうなると移送費だけで数百万円、さらに南アでの医療費は先進国並であり、ICUでは1日50万円程度かかる。従って、300万円程度では、すぐに底をついてしまう。状態が許せば、専用機などで日本まで運んでもらうことを考えると、合計で最低3000万円から4000万円は加入しておいてもらいたい(左記「保険の話」参照してください)。

助手:

3000万円ですか。結構な額の保険料になりますね。でも、それで安心を買えると思えば、安いんでしょうね・・・

博士:

大事なことは、旅行前に必ず保険に加入しておくこと。そして、何かあった時のために保険会社の連絡先を必ずメモしておき、病気でも事故でも、起きた時に、早めに連絡しておくことじゃ。移送の可否などは保険会社の判断になるから、自分の判断で勝手に飛行機を手配したりすると、後で補填されないこともあるから注意が必要じゃ。

助手:

わかりました。他に、旅行者が注意すべき大事な点は何でしょうか?

博士:

先ほどの”備えあれば憂いなし”に繋がるんじゃが、事前に渡航先の医療情報を出来るだけ入手し、その危険に備えておくことじゃ。

助手:

どうやって調べれば良いですか? やはりネットでしょうか。

博士:

そうじゃな。ツアー会社に聞いておくという方法もあるが、今の時代であればネットで調べておくのが一番確かじゃ。外務省の安全情報※や、在外公館医務官情報※などが参考になる。

助手:

でも、見てみるとけっこうな量の情報があるようで、なかなか頭に入りませんね。

博士:

試験勉強じゃないんだから、別に全部暗記する必要はない。

助手:

博士、簡単にまとめてくれませんか?

博士:

しようがない。君のために、「疾病予防のための行動上の注意」ということでまとめてみると、以下の6点に集約される。1.旅行者下痢症・感染症対策。2.節足動物・有害動物対策。3.性行為感染症対策。4.生活習慣病対策。5.ストレス対策。6.犯罪・事故対策。

助手:

いいですね。6個位なら覚えられそうです。1番目の旅行者下痢症対策とは具体的に何でしょう? 正露丸を持っていくこと、でしょうか?

博士:

正露丸で済む下痢であれば良いが、そうでない場合も多い。基本は、生の水・食品を摂取しない、熱を通した物を熱いうちに摂取する、ということにつきる。

助手:なるほど。2番目の動物対策は、何でしょうか? サファリツアーでは大声をあげないことでしょうか?

博士:

それも確かに必要かもしれんが、そういうことではなく、媒介感染症としての動物対策じゃ。すなわち、防蚊、防虫対策。虫除けを使う。蚊帳、オリセットネット※などを利用する。スコーロン※などの衣類を着用するなどが重要じゃ。

助手:

オリセットネットは、左の目次で言えば「蚊帳の話」で住友化学製、スコーロンは帝人とアース製薬の協同開発、ということでしたね。 

博士:

そうじゃ。いずれも日本企業の開発によるもので、頼もしい。他、裸足で歩かない、淡水で水浴びしない、などの寄生虫対策も必要じゃ。そして次の性行為感染症対策は、特に若い人には十分注意してもらいたいな。

助手:

博士は、もう対策はいらないでしょうけどね。

博士:

おほん。この件に関しては、挑戦は危険じゃぞ。コンドームなどの適切な使用の他、タトゥーの挑戦も勧められん。また、途上国によっては、注射器を持参する必要がある国もある。

助手:

4番目の生活習慣病対策って、途上国でも必要ですか?

博士:

途上国での滞在者の場合、特に車の移動が多くなり、運動不足になりがちじゃ。暑い国であっても積極的に汗を流すなどのスポーツをすることが勧められる。そしてスポーツは5番目のストレス対策にも繋がる。

助手:

暑い熱帯で汗をかくのも結構きついですけどね。

博士:

当地であっても、先日のソフトボール大会や日本人会運動会など、涼しい時期を狙って体を動かすことは、心身にとって良い。

助手:

まあ、確かに気持よかったですが、翌日に太ももが痛くなりました。

博士:

それは、運動不足じゃな。そして最後は、事故・犯罪対策。JOCVの講演会でも話されていたが、高山病や潜水病にも注意して、海外生活をエンジョイしてもらいたい。海外においても、想定外だった、などの言い訳をせんよう、万全の準備をして、最悪の事態に備えることが、危機管理上、一番重要なことじゃ。

助手:そうですね。写真のような事態は起きるわけですからね。想定外とか言っていてはだめですね。私も夏休み明けからでもしっかりと渡航医学の勉強を始めます。
博士:そんなに先延ばしせず、思い立ったらすぐに始めてもいいんだぞ。
助手:今は、とりあえずスワヒリ語の勉強をしているので、”一定のメドがついたら”、他の勉強も始めようかと・・・
博士:うーん。悪い使い方が流行ってしまったな。皆さん、言葉の使い方には注意しましょう。

 

日本渡航医学会

「旅と病の三千年史ー旅行医学から見た世界地図」濱田篤郎著、文集新書

世界観光機構

出入国在留管理庁

外務省海外在留邦人数統計

外務省海外邦人援護統計

外務省海外安全ホームページ

世界の医療事情(外務省在外公館医務官情報)

オリセットネット(住友化学)

スコーロン(帝人)

 

 

 

 

 

 

 



コメント

このブログの人気の投稿

医療落語「博士と助手」オリジナル

南海トラフ地震 関連情報

著書:想像を超えた難事の日々(増刷)