危機管理の話

1999年4月


助手:博士、先月にジャカルタ・カウンセリング主催の講演会があったそうですね。どんな内容だったのですか?
博士:講師は神戸大学医学部の新福教授で、テーマは「心理面での危機管理」と言う事じゃった。
助手:危機管理ですか。そうですね、これからどんな事態が起こるかわかりませんよね。そうした事態に対する心の準備についての講演会、だったんですね。
博士:そういう事じゃ。まあ、インドネシアに限らず世界中どこにいても、たとえ日本であっても自然災害、人的災害というのは常に起こる可能性がある。
助手:自然災害というのは地震などですよね。人的災害というのはどんな場合ですか?
博士:人的災害というのは、個人が被るものとしては通常の犯罪による被害、集団が被るものとしてはサリン事件などがある。自然・人的の複合的なものとしては、戦争、クーデターなどがあげられる。
助手:そうか、サリンの事を考えれば、日本にいれば安全という訳ではないですね。北朝鮮のミサイルも心配だし・・・
博士:うむ。どこにいても避けられない。インドネシアばかりが危険なわけではない。
助手:阪神大震災やサリン事件の後、心の後遺症の問題が大きく取り上げられましたね。
博士:そうじゃ。あれだけ大きな、そして異常な事態の後には精神的にも不安定になる。震災の例でも、直後にはみなパニックあるいは呆然とした状態になった。
助手:そうですよね。家が倒壊したり、肉親や知人が亡くなったりといった事態を目の当たりにしたんですから、平静にしていろという方が無理がありますね。
博士:うむ。災害の直後というのは、後から考えてみると何でそんな事をしたんだろうというようなおかしな行動をとっている場合が多い。
助手:家が火事にあって命からがら逃げてみたら、何故か大事そうに目覚まし時計だけを抱えていたとか、聞きますよね。通帳とか大事なものは持って出ていないのに。
博士:通帳を持ち出すだけの時間的あるいは心の余裕は普通はない。災害直後はパニックに陥っており、まともな判断はできないと考えた方がよい。
助手:現実感が無くなったりする場合もあると聞きますね。
博士:そうじゃ。現実否認、感情鈍麻とよばれる状態になる。現実として受け止めるにはあまりに災害が大きすぎるため、持ちこたえるため心が防御反応をとっていると考えられる。肉親を亡くしたのに当初は悲しいという感情が表れず、涙も出なかった。ずーっと後になって初めて悲しみを実感したという話もある。
助手:なるほどね。災害を現実のものとして受け止めるには時間がかかるんですね。
博士:うむ。こうした現実感の無さは、体がふわふわするといった感じで表現されるが、通常は数日間続く。また、感情が高揚して興奮したり多弁になったりする場合もある。
助手:茫然自失状態で固まっている人もいれば、興奮してしゃべりまくっている人もいるわけですね。
博士:うむ。こうした状態が数日から1週間続くと、次に急性のストレス反応が生じてくる。心理的ストレスが実際に肉体的な病気として表われてくるんじゃ。具体的には、血圧が上がったり、急性の胃十二指腸潰瘍になり吐血することもある。
助手:ストレスが心臓や胃に負担をかけるわけですね。私も博士の下で働くようになってから胃がよく痛んで・・・
博士:・・・・続けるぞ。それと不眠も大きな問題じゃ。常に神経が高ぶっており、ちょっとした物音で目を覚ますなど、眠りが浅い状態が続く。
助手:不自由な避難所生活ではゆっくり眠れないですよね。電気やガスなどのライフラインも整っていないでしょうしね。
博士:うむ。また、急性ストレス反応の一つにフラッシュバックと呼ばれるものがある。
助手:フレッシュ・パックですか?
博士:スーパーで買い物している訳ではないんだから。フラッシュバックじゃ。これは災害後2週間後頃から現れるんじゃが、頭の中に災害の場面が突然よみがえってくる現象の事じゃ。
助手:倒れる家とか、死んでいく肉親とかのショックな映像が頭の中に繰り返し現れるんですね。それは、つらい。
博士:そして、この頃から家や仕事、知人や肉親を失った事に対する喪失感が現実的なものとして実感されてくる。うつ状態になったり、ひどい場合には自殺をするのもこの時期じゃ。
助手:やりきれない現実に直面するわけですね。
博士:そうじゃ。こうなると、気持ちを晴らそうとしてアルコールやギャンブルに耽溺する場合も起きてくる。
助手:酒でも飲まなきゃやってられない、という訳ですね。私もね、博士の下で働くようになってから毎晩お酒を・・・
博士:無視して続けるぞ。まあ被災者の場合なら気持ちはわかるが、飲み過ぎて体をこわしては元も子もない。
助手:こうした異常な精神状態と言うのは災害後いつごろまで続くものなんですか?
博士:通常は時間の経過とともに軽くなる。異常な反応はあくまで一過性じゃ。しかし、被災後1ヶ月以上も重い症状が続く事があり、これは心的外傷(PTSD)と呼ばれる。PTSDは1年以上継続する事もある。こうなると、専門家による治療が必要になってくる。
助手:1年以上も続く事があるんですか。そう言えば阪神大震災の場合でも、未だに仮設住宅に住んでいる方もいるわけですから、そうした方々の心の傷は今でも癒えていないのかもしれませんね。それにしても、どうしたらこうした心の問題を軽く、あるいは早めに解決する事ができるんでしょうか?
博士:まず、日頃から災害に備えて、家族や会社単位で事態を予想して対策を立てておく事が第一じゃ。
助手:予想できる事態ばかりなら良いですけどね。
博士:うむ。もちろん予想外の事態が起こる事の方が多いかもしれん。しかしそれでも、災害時に持ち出す物を決めておくとか、食料や非常用器具を用意しておくとか、家族がばらばらになった場合に備えて落ち合う場所を決めておく、といった準備は非常に重要じゃ。それと、災害時には絶対に一人で行動してはならない。
助手:ダイビングの場合でも一人で潜らない事という鉄則があるそうですね。
博士:うむ。一人ではパニックになった時に対処ができない。それと、他の人と情報を交換しながら、災害後にはできるだけお互いの体験を話し合い、経験をシェアするように勤める事が必要じゃ。
助手:同じ体験をしたもの同士で話しあう訳ですから、共感を得られやすいでしょうね。
博士:うむ。さらに災害後に復興作業を開始する場合、充分な休養と食事をとる事に心がけなければならん。
助手:こういう時は、つい働きづめになってしまいがちですけどね。休養ですね。
博士:それと忘れてはならないのが、震災の場合でも問題になったが、救援・支援活動を行っている人たちのメンタルヘルスの問題じゃ。
助手:救援者ですか。震災の時にも多くのボランティアが活躍されていましたね。
博士:消防隊員など以外にも約150万人がボランティアとして活動した。こうした救援者にも被災者と同様に燃え尽き症候群と呼ばれる心の問題が起きる事がある。
助手:燃え尽きですか? 明日のジョーみたいですね。最後のホセ・メンドーサとの試合で・・・
博士:明日のジョーの場合は、やりとげたという意味で肯定的にとらえられていたが、救援者の場合には、燃え尽きるには早すぎる。
助手:消防隊やボランティアの人は不眠不休で頑張っておられたようですからね。疲れきってしまうんですかね。
博士:不眠不休で、というのがいかん。かならず時間をくぎって作業にあたり、きちんと休息をとる事が重要じゃ。
助手:そういう場面で、休めと言われてもなかなか取れないかもしれませんね。
博士:うむ。したがってボランティアの救援者の場合でも、それをアレンジする管理者が気を使う必要がある。そもそも救援者の人たちは、役に立っているという充実感や満足感から仕事を続けている。被災者からも感謝され、連帯感も強く感じるようになっている。高揚した気持ちで活動しているから、活動が一段落して撤退する段階で心に大きな穴が開いてしまう事になる。
助手:確かに。じゃー、もう結構です、と言われると、寂しくなってしまうでしょうね。
博士:救援活動というポジティブな、それこそアイデンティティーを確認できるような体験が活動を終了する事で失われてしまう為に抑鬱的な状態になってしまうんじゃ。ともに救援活動にかかわっていた人たちや被災者ともっと接触を持ち続けていきたいという欲求が強くなったり救援活動に終止符を打つ事に抵抗する場合もある。
助手:元の生活に戻っても仕事に気が乗らないかもしれませんね。燃え尽き症候群にならないためにはどうしたらよいのでしょうか?
博士:被災者の復興時の活動の場合と一緒じゃが、救援活動も時間を区切って行う事、充分な休養と栄養をとりながら行う事じゃな。
助手:救援に行って休んでいたら申し訳ない、と考えてはいけないんですね。
博士:そうじゃ。結果的に燃え尽き症候群になり他の誰かから救援される立場にならないように無理なく活動を行わんといかん。そして、さらに大事な事は、活動後ミーティングを設けて救援者同士で、あるいは管理者に自分たちの救援活動体験をじっくり語る事が必要じゃ。また、家庭に戻った時のためにも自分の家族に活動の様子を常々報告しておいた方が良い。
助手:そうすると、よく単独でボランティア活動されている人がいますが、それはあまりよくないのですか?
博士:単位は一人であっても、他の活動者とともに語り合う時間を作る事が重要じゃ。
助手:そうすると救援活動という仕事は、それを管理する人が必要になりますね。
博士:うむ。そうなんじゃ。やはりチームを組んで役割を分担させたり、救援者自身のストレス度をチェックして、場合によっては強制的にでも休養をとらせたり、きつい現場から遠ざけたり、といったマネージメントをする係が必要じゃ。
助手:管理する人の責務が実は重大なんですね。
博士:その通りじゃ。各企業の責任者の方は、特にこうした問題についての理解を深めていただきたい。そして、新福教授も強調されておられたが、「異常な状況においては異常な反応が正常な反応である」という言葉を災害時には思い出してもらいたい。
助手:災害という異常な状況で精神的に異常になるのは普通のこと。誰でもそうなる、という事ですね。そうか。私が、昨年の5月暴動で日本に脱出するために空港まで行った時にお金を持って来るのを忘れて、領事館にフィスカル代、航空賃を借りたのも、普通の事だったんですね。
博士:それは普通の事かなー? そもそも君は、日頃から100万ルピアも持っておらんのじゃないか?
助手:いや、いつもは持っているんですが、銀行も閉まっていたので・・・。あ、そうかその前の週にカラオケに行っていたのと、ゴルフの握りでさんざん負けたので手持ちの金がなかったんでした。
博士:いつもながらじゃが、それにしても、領事館に借りたお金は返したのか?
助手:え?? そう言えばまだでした。
博士:2回目は貸してくれんかもしれんぞ。2度目に備えて、今の内に借りた金は返しておきななさい。
助手:そうですね。今週末はちょっと忙しいので来週になったら、あ、そうだ来週もお客さんが来るから・・・
博士:もう、いいかげんに震災。
助手:うわっ!! 今回は震災関連の話だけに、ぐらっと来るようなしゃれでしたね。

 

(今回の話は神戸大学医学部国際交流センターの新福教授の講演会を参考にさせていただきました。改めて、ここにお礼を申し上げます。)


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