帰国の話

1999年3月


助手:今月は、家族を本帰国させる邦人が多いらしいですね。
博士:うむ。長引く経済危機の影響で仕事そのものを撤退させる企業もある。リストラの一環で、とりあえず単身赴任に切り替えるという所もある。
助手:それと、やはり治安の問題ですかね。
博士:6月には総選挙が予定されている。今までの選挙とは全く異なり、戦後初めての民主的選挙であり、ある意味でパンドラの箱を開けた状態になると予想される。
助手:パンドラの箱ですか。今までは強力な指導者の下で蓋が閉められた状態だったが、インドネシアはその蓋を開けてしまった。何が飛び出してくるのかわからない、という事ですね。
博士:そういう意味で、再び大規模な騒動が起こる可能性を考えれば、年度末であるこの時期に家族だけでも帰そうと考えるのはもっともな事じゃ。一般犯罪も増加しておるしな。
助手:まあ居残るお父さん達にとってみれば寂しいですが、今度ばかりは仕方がありませんかね。
博士:もちろん家族というものはどんな事態が起ころうと一緒に住み、苦楽をともにするのが基本であると考え、敢えて家族を帰さず、インドネシアの変動を家族とともに見守りたいと考えている人もあり、それはそれで立派な姿勢じゃ。
助手:そうですね。そうなると後は個人の考え方ですからね。他人がとやかく言える問題ではありませんね。
博士:うむ。個人の責任の問題じゃからな。
助手:博士、長く家族を住まわせていて今回、久しぶりに帰国させる方も多いかと思いますが、健康の事については何か注意する事がありますか?
博士:そうじゃな。まず気候が大幅に変化するから、それについての対策が必要じゃ。わしも2月初めに数日間日本に戻ったがとにかく寒くて往生した。
助手:今年の日本は結構寒かったようですね。
博士:うむ。わしも熱帯の生活が長いから当地にすっかり順応しておったようじゃ。成田でマイナス2度だったから、こちらで買ったコートでは間に合わんかった。
助手:もう3月ですから、それほど寒い事は無いかもしれませんが、まず服を用意するということですね。
博士:うむ。それと風邪対策じゃ。
助手:インフルエンザが大流行したようですね。亡くなった人の数も半端じゃなかったですね。
博士:2月の段階で26万人以上が感染したと報告されている。インフルエンザ・ウイルスは乾燥した低温地域で大流行するから、もう下火になるはずじゃが、流行時期に帰国する場合は是非、日本でインフルエンザ・ワクチンを受けるべきじゃな。
助手:ワクチンは効くんですか? 型がはずれると効かないのじゃないですか?
博士:現在日本で投与されているものについて言えば、インフルエンザ・ウイルスに対しては70-90%の効果があると考えて良い。
助手:そんなに効果があるんですか?
博士:インフルエンザ・ワクチンはA型ソ連型、A型香港型、B型の3種類の混合型になっており、流行する型が予想と異なり効果が無かったという事はありえない。もちろんA型とB型は毎年突然変異により性質が変わっているから、効果が薄くなる事は多少ある。
助手:そうすると、たいていの風邪には効果がある、と考えて良いわけですね。
博士:いや、風邪といってもインフルエンザばかりでなく、他の種類のウイルスによる場合もあるから、他のウイルスによる風邪に対しては効果がない。しかし、それでも症状を軽く済ませるという効果は期待できるとされている。
助手:お年寄りにも同じくらいの効果がありますか? 副作用はどうですか?
博士:肺炎などへ重症化する事を防ぐ意味でも、お年寄りにこそワクチンを、というのが世界の趨勢じゃ。是非、流行前に打ってもらいたい。重い副作用が出るのは数百万人に一人位の割合じゃから、効果が副作用を上回る事は間違いない。加えて言えば重症な副作用の多くはショックじゃから、注射して30分位の間、病院でしばらく様子を見て何事も無ければ問題ないと言える。
助手:ワクチン以外に治療は無いのですか?
博士:欧米で使われていたアマンタジン(商品名シンメトレル)がA型インフルエンザ・ウイルスの治療薬として、やっと日本でも許可された。B型ウイルス用の薬も開発されておるようじゃし期待はできる。しかし、風邪について言えば、まず予防じゃ。
助手:うがい、手洗い、睡眠、バランスの良い栄養、かかったかなと思ったら十分な休養、でしたよね。
博士:よくわかっとるな。その通りじゃ。
助手:博士、帰国する場合、他に注意する事はありますか?
博士:当地で毎年健康診断を受けていたとしても、やはり日本でオーバーホールの意味で人間ドック等を受け、念入りにチェックしてもらった方が良いな。
助手:結構あぶない物も口にしていて寄生虫も気になりますしね。
博士:そうじゃな。しかし寄生虫の問題に関して言えば、むしろ日本に行く前に当地でチェックしておいてそれなりの駆虫薬を飲んでおいた方が良いかもしれん。
助手:あ、そうか。日本で便検査で虫を見つけられると大騒ぎされるかもしれませしね。子供の場合、学校でいじめにあってもいけませんしね。
博士:まあ、それもあるが、そもそも寄生虫検査については当地の方が慣れておるからな。そうそう、いじめで思い出したが、帰国する前に心しておくべき重要な事を一つ思い出した。
助手:それは何ですか? 帰国前にはカラオケ屋を回って人間関係をきちんと精算しておく事ですか?
博士:何じゃ、それは。君だけだろ、そんな事が必要なのは。そういう次元の話ではない。日本に戻ってから困らないように逆カルチャーショックというのがある事を覚えておいてほしい。
助手:当地に赴任したばかりの時にカルチャーショックは感じましたが、日本に戻る場合でもあるんですか?
博士:そうじゃ。長く住んでいれば程度の差こそあれ必ず当地に適応している。適応すればするほど、日本に戻った時に違和感を感じるはずじゃ。
助手:なるほどね。そう言えば休暇で帰った時、新宿など怖くて歩けなかったですね。人がみんな急いでいるし、いっぱいいるから直ぐにぶつかってしまいましたね。インドネシアの人は、道路を横断する時でも走ったりしませんものね。
博士:何で急がないんだ、走らないんだ、等と思ってみてもインドネシアはこういうペースなんだと割り切らないと生活していけない。割り切れるようになって、日本に戻ると今度は、何でこんなにせわしないんだ、急いでばかりいるんだなどと感じるかもしれん。
助手:それに日本では若い連中の態度の悪さや服装の乱れが気になりましたね。みんな携帯電話を持っていて我が物顔で街を闊歩していましてね。髪の色も茶髪どころか頭にモップをのっけているのかと思うような輩もいました。思わず、ひっくりかえして床を磨いてやろうかと思いましたよ。
博士:君位の年齢でも既に彼らにはついていけなくなっておるんじゃな。
助手:とても理解なんかできませんよ。それに比べればインドネシアの学生達の方がよっぽど好感が持てますよ。何しろ軍隊をものともせず前政権を倒したんですからね。小さい子供も交差点で一生懸命働いていますよね。同年代の多くの日本の子供は何をしているかと言えば、ゲームセンターで親の金を湯水のように使っているだけですからね。
博士:まあ日本の子供にも受験やら何やらでいろんなストレスはあるだろうからな。
助手:勉強させてもらってストレスなんて、ちゃんちゃらおかしいですよ。そもそも学校に行けるだけで幸せなのに。その学校でも学級崩壊とかいって授業をまともに受けないって言うんですからね。まったく・・・
博士:・・・君も帰国の際には逆カルチャーショックのため、日本にとけ込むには相当時間がかかりそうだな。しばらくの間は自分を国籍不明の異邦人のように感じてしまうかもしれない。まあ、いずれにしても時間が経てば適応できるはずじゃから、日本で違和感を感じたとしてもあせらない事が肝心じゃ。リハビリ期間が必要じゃ。
助手:異邦人ですか。会社や地域社会、学校が逆カルチャーショックの事を理解して暖かく迎えてくれれば良いですけどね。それにしても電車に乗っていた高校生にろくなやつはいなかったな。昼間っから何しているんだか繁華街でプラプラして、平気で人前でタバコ吸ってましたね。私らなんかの時は、一応うしろめたさを感じて隠れて吸っていましたよ。全然そういう罪悪感のかけらも感じないのかなー。
博士:それを注意する大人がいなくなった。下手に注意すれば袋叩きにあってしまう、という事かな。
助手:あー、いやだいやだ。そんな日本には私は戻りたくない。博士、私の帰国はまだまだ先に延ばしてくださいね。
博士:そうじゃな。君の場合は、するすべき事がまだまだ山ほどあるから少し時間をあげるとするか。
助手:そうなんですよ。あの店、この店、それとコタのあそこも回って、借金と人間関係の精算を・・・
博士:するべき事というのはそんな事か? 君の場合は抑える者がおらんと、パンドラの箱も開けっぱなしじゃな。そんな事では、とても未来は期待できんぞ。
助手:時々は蓋をするようにしているんですが、だめですか。未来が無いのはどうしてですか?
博士:うむ。インドネシアの場合、箱の蓋は開けたばかりじゃからまだ底に残っておるが、君の場合は既に底にあるはずの「希望」も失われておるじゃろう。
助手:私の場合パンドラの箱は空っぽなんですね。日本に帰っても異邦人扱いだし。うーーん、♪現在、過去、みらーい・・・♪
博士:君の場合、♪現在、過去、未来も暗ーい♪じゃろ。
助手:すっごい字余りですが、まいりました。私はともかく、せめてインドネシアに明るい希望の光を!!

 


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