怪我の話

1998年12月


助手:先月の国民協議会開催時には、多くの犠牲者が出てしまいましたね。
博士:うむ。13日、14日で死亡者数は14人と報道されている。学生、治安部隊、自警団や報道関係者などが犠牲になっている。また、例によって商店や銀行を襲ったりという暴動も発生し、負傷者の数は4百人以上と言われている。特に13日、アトマジャヤ大学の裏にあるジャカルタ病院の救急病棟は患者で溢れていたようじゃ。流れ弾に当たった5才の子供も、危篤状態で入院した。
助手:予想以上の被害者数でしたね。危険度も2に引き上げられましたしね。
博士:うむ。今後の情勢も予断は許されんな。
助手:死亡者の解剖なども行ったようですが、ゴム弾で死ぬ事もあるんですかね。
博士:ゴム弾といっても銃から発射されている。パチンコで打っているわけではないから破壊力は相当なものと思われる。筋肉内に深く進入するようじゃから、至近距離で胸や頭部を打たれれば、死ぬこともある。しかし遠距離から被弾しているとの報告もあり、実弾が使われた事による被害である可能性の方が高いと思われる。
助手:そうですか。犠牲者の追悼集会などもやっているようですが、いずれにしても亡くなった学生のご両親の悲しみは大きいでしょうね。
博士:うむ。たとえ歴史の一ページに彼らの名前が刻まれるとしても、家族にとって犠牲者はかけがえのない存在であり、失われた命は永久に戻ってくる事はない。
助手:怪我程度なら、まだしもですけどね。
博士:うむ。まあ、君もとりあえず騒動にまきこまれず怪我もせずによかった。
助手:ええ、さすがにその週はおとなしくして、どこにも行きませんでしたからね。実はちょっと顔出してみたんですが、たいていの店は閉まっていましたね。
博士:なんだ、それでも開いているかどうか見に行ったのか、君は。
助手:いやー、念のための視察ですよ、視察。そんな事より、博士。前から聞こうと思っていたんですが、ジャカルタで怪我や骨折をした場合は、どうしたら良いですか? 当地の治療で問題ありませんか?
博士:そうか、あんな騒動の時でも飲みに行っていたのか。まあ良い。何だって? けがの治療か? それは怪我の程度による。通常の打撲、擦過傷、切創程度であれば、当地での治療で問題ない。
助手:傷を縫ってもらっても大丈夫ですね。
博士:うむ。しかし骨折となってくると、少し事情は変わってくる。
助手:骨折の治療は、任せられない、という事ですか。
博士:そうではない。成人の単純骨折は当地でも手術可能だし、手術の手技そのものなら、日本の一般の整形外科医よりも上手な専門医も多い。わしも私立病院で大腿骨骨折の手術を見せてもらったが、上手なもんじゃった。
助手:インドネシア人も結構、器用ですからね。
博士:うむ。また、当地ではギブス固定の期間が日本よりも短い。日本で4週間かかるものが、2週間程度ではずれる事もある。
助手:そんな早めにギブスをはずしちゃって大丈夫なんですか?
博士:まあ、それが不思議な事にたいていの場合、大きな問題にはなっていない。日本で治療するよりも早く治ったと喜んでいる人もいる。
助手:手術も上手で治りも早ければ良いことばかりですけどね。何が問題ですか?
博士:まず治療以前の診断自体に問題があるケースが報告されている。
助手:診断って言ったって、骨折ならレントゲンを撮れば医者ならすぐわかるのではないですか?
博士:そのレントゲンなんじゃが、当地ではなるべく少なく枚数を撮るという傾向があるようじゃ。
助手:貧乏な人にとってはその方が良いでしょうけどね。
博士:例えば、転んだりして右の前腕を怪我したとするな。当地で病院に行くと、患者さんが痛がっている右の前腕のみのレントゲンを2方向撮って、それで終わりにする事が多い。
助手:折れている可能性のある部分だけをレントゲンで撮れば良いのではないんですか? 
博士:それだけでは足りない事もある。というのはな、患者さんは、一番痛い部分に目が行く。このため、もし肘や肩といった他の部分にひびが入っていたとしてもしばらくの間気づかない事がある。日本の病院であれば、事故の状況などをよく聞いて、腕、肘や肩のみならず、必要ならば腰や頭、肺等のレントゲンなども撮っておくの が定石じゃ。後で、問題になっては困るのは病院の方じゃからな。
助手:そうか。事故のしばらく後になってわかる骨折というのもあるんですね。
博士:うむ。随分前の話じゃが、とある留学生が寮で転倒して右のとう骨、親指側の骨を骨折した。そこの部分は明らかに変形して曲がっていたから、素人目にも、その部分の骨折である事はわかった。そして救急車で病院に運ばれたんじゃが、前腕2方向のレントゲンしか撮らなかった。直ぐに手術が行われて整復され、ギブス固定がされた。数週間後ギブスをはずしてみて、初めて患者は肩にも違和感がある事に気づいた。
助手:そうか。固定して首から腕を吊っていたので肩の方はわからなかったんですね。
博士:うむ。その時初めて肩のレントゲンも撮ってみて、肩甲骨にもひびが入っている事が判明したという例がある。
助手:そんな事があったんですか。それはかわいそうでしたね。その学生さんはどうしました、その後?
博士:フランスから来たばかりの留学生じゃったが、ほうほうのていで帰国した。リハビリもあったので戻って来たのは数ヶ月後じゃった。
助手:そうか。でも患者の側から医者に多めにレントゲンを撮ってくれと注文するのも変ですよね。
博士:しかし、できればそうした方が良い。他の部位も撮らない医者が悪いんじゃから。
助手:レントゲンの事以外では、どんな問題がありますか?
博士:変形の問題、機能の回復の問題がある。患者さんは誰でも元通りになると考えて手術を受けるが、そう簡単ではない事もある。変形が残ったり、元のようには動かなくなるケースもある。そうすると医者からはそんな説明は聞いていなかったという話になる。そもそも当地では手術後に医師から患者さんないし患者の家族への説明が行われない事の方が多いんじゃ。
助手:私自身は家族や友人の手術に立ち会った経験は無いんですが、テレビドラマなんかで見てみると、手術の後、たいてい医者が手術用の青い服を着たまま神妙な顔で家族に説明していますよね。手術は成功でしたとか、失敗でしたとか。
博士:手術は失敗でしたとはあまり言わないと思うがな。
助手:そうか。手術は失敗でした、なんて言ったら家族に怒られますよね。でも、インドネシアでは、その手術後の説明がないんですか。それじゃあ、怪我の程度がどんな具合だったのかとか、いつ頃退院出来るかなども教えてくれないんですね。
博士:そうなんじゃ。患者や家族がしつこく聞かないと何も教えてくれない。
助手:看護婦さんに聞いてもだめですか?
博士:彼女達は何も知らない。医師の指示どおりに動いているだけじゃ。
助手:それじゃあ。不安ですね。
博士:まあ、単純な骨折や腱の断裂などのケースなら、手術後の回復も早いし、ほとんどのケースで問題はない。しかし、複雑なケースや手術後の合併症が考えられるケース、元々慢性病などの持病があり手術後の管理が難しいケースでは、当地での治療には限界があると考えた方が良い。
助手:シンガポールや日本で治療を受けた方が良い、という事ですか?
博士:うむ。そういう選択も考える必要がある。
助手:おちおち怪我もしていられませんね。
博士:治安の悪い時には、出歩かんようにな。
助手:いやー、遊びに行ったわけではないんですよ。一応、市内の状況を視察して東京の方にも知らせようかなと思いまして、念のため店が開いているかどうか、ちょっと顔を出しただけなんですけどね。そしたら、たまたま開いていて・・・
博士:あきれるな、わしはそんな指示は出しておらんぞ。それに開いていたのか。
助手:そうでしたっけ。まあ、そんな感じなんですが。店の方は、従業員の帰りの車が心配だとか何とか言って9時過ぎには閉められちゃったんです。従業員のお姉さんは私が送って行くからとママさんには言ったんですが・・・
博士:うーん。君は、この非常時に何をしているんだか。行為の危険度が高いな。
助手:でも、博士はこういう時でもあまり心配いりませんよね。暴動に巻き込まれても、怪我がなくて、毛がなくてよかったですね、なんちゃって。
博士:しゃれもくだらなくて涙が出るわ。わしのしゃれは解説せんから繰り返すなよ。君の場合、面倒な事にならんように、夜の街では、がいしょうに注意しなさい。
助手:え? けがの話だけに、外傷、街娼・・に注意ですか。うまい。
博士:繰り返すなっちゅうの。

 


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