死の医学の話
1999年8月
助手: | 博士、先月日本人学校で動物標本展示会が行われたようですね。 |
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博士: | うむ。創立30周年記念の催しの一つだったようじゃ。 |
助手: | その催しのために日本から標本を持ってきたんですか? |
博士: | うむ。これにはストーリーがあってな。多くの人々の協力により実現した企画なんじゃ。 |
助手: | どんなストーリーですか? 興味深いですね。 |
博士: | 君も名前くらいは知っておるじゃろう。解剖学者の養老孟司の事は。 |
助手: | 全国1万軒を誇る居酒屋のチェーン店ですか? |
博士: | ・・・君が知っていると思ったわしがばかじゃった。脳の研究などで一般向けにも多くの本を出版している学者でな。「唯脳論」などが話題になった。 |
助手: | その、ちょっと、よーろー先生がどうかしたんですか? |
博士: | その養老博士の下、東大医学部の標本室で長年にわたって標本を作製していた吉田穣(ゆたか)さんという人がおってな、その方がインドネシアに100種余りの動物標本を持って来られたんじゃ。 |
助手: | そうなんですか。 |
博士: | その標本は、プラスティネーションという特殊技術で作られている。 |
助手: | プラスティック化ですか? プラモデルみたいな。 |
博士: | うむ。従来の動物標本はホルマリンのみで固定されている。ホルマリン固定は便利で簡易な方法なんじゃが、刺激性が強いので取り扱いづらいという欠点があった。細胞の水分をシリコンに置き換えるプラスティネーションという技術は、標本をじかに触れる身近なものにした。硬度も保たれるのでスライスも容易じゃ。 |
助手: | 手にとって触っても壊れたりしないんですか? |
博士: | そうなんじゃ。子供達や学生が手軽に扱えるので教材としてたいへん優れているものとして注目されている。数年前、東京や大阪などで人体標本展示会が養老孟司先生の監修の下で一般に公開されて、大評判になった事もある。 |
助手: | 人体標本展示会の事なら聞いた事があります。人体の輪切りなどがそのまま展示されていて相当インパクトがあったようですね。でもまたどうしてそんな貴重な標本をインドネシアに持って来られたんですか? |
博士: | 奥様がこちらの方であり以前よりインドネシアとの繋がりが強かった。インドネシア大学などで標本作製についての講義をしたこともある。そして、自分が作った標本をインドネシアの子供達に見せてあげたい、できればそのための博物館や図書館を建設したい、というのが吉田さんが描いていた定年後の夢だった。 |
助手: | なるほど、それで定年されてこちらに来られたんですね。 |
博士: | いや、定年まではまだ間があったんじゃが、大病をされてな。余命幾ばくもないと、この5月に医師に宣告された。それで、最後の人生をインドネシアで過ごしたいと考え、病の体をおして当地に来られたんじゃ。 |
助手: | そして、まず日本人学校の子供達に標本を見せるという事になったんですね。 |
博士: | そうなんじゃ。しかし、吉田さんは6月28日、こころざし半ばにして当地で亡くなられた。まだ58歳という若さだった。 |
助手: | えー、亡くなられたんですか。それはさぞかし無念だったでしょうね。 |
博士: | いや、どうかな。日本での体調は相当悪かったらしいんじゃが、こちらに来られてからは、希望の一部が実現した喜びのためか、一時は随分とお元気じゃった。食欲もあり、奥様と庭を散歩されたりして充実した日々を過ごされたようじゃ。夢であった標本の展示も教え子達によりしっかりと引き継がれている。そういう意味では、無念ではなく、心安らかに亡くなられたのではないかと思える。 |
助手: | でも、亡くなられた後に日本人学校での展示会が行われたんですよね。 |
博士: | そうじゃ。吉田さんを慕う教え子や関係者達がグループを作っており、吉田さんがジャカルタへ来るときも標本を運ぶために二人、そして日本人学校での展示会のためにも学生さんが一人、手伝いに来た。ジャカルタ日本人学校の先生方にも快く協力してもらう事ができ、学校での展示会にこぎつける事ができたんじゃ。 |
助手: | 亡くなられた後でも、多くの方々の支援により事が運んでいるんですね。 |
博士: | 皆、手弁当で手伝っている。吉田さんがいかに慕われていたかがうかがわれる。 |
助手: | 希薄と言われがちな日本の人間関係もまだまだ捨てたもんじゃないですね。 |
博士: | 吉田さん夫婦には子供が無かったんじゃが、生前、吉田さんは言っておられた。自分にとっては、奥様、そして標本、さらに自分を慕ってくれる多くの生徒が大切な宝である、とな。 |
助手: | そして、人生の最後を希望の地で過ごす事ができた。なるほど、すばらしい人生の最後だったのかもしれませんね。 |
博士: | うむ。特に今の日本では死を病院で迎える事が多い。よく言われている事じゃが、体中をスパゲッティのような管に繋がれ、家族と隔離された状態で死を迎えざるを得ない事も多い。こうした時代では、いかに自分の最後を演出するか、死を創るかというのは非常に難しい問題じゃ。 |
助手: | そうですね。癌などの重い病気では治療は病院でしかできませんからね。薬の副作用も厳しいらしいですが、うまくいって家庭や職場に復帰できれば良いですが、そのまま病院で最後を、というのは納得できないですね。 |
博士: | もちろん最近は医師の側の考え方も変わってきており、「死の医学」が医療にとっての重要なテーマになりつつある。ターミナル・ケア、人生の最後となるべき治療は、それぞれのクオリティ・オブ・ライフ(QOL)を考慮したもので、それまでの画一的な治療とは異なるものでなければならない。 |
助手: | 最後まで希望を捨てずに、1%の可能性にかけて大きな手術や厳しい化学療法を受ける人もいるでしょうが、そうした賭けはぜずに、いっさいの治療を拒否して残りの人生を家族と共に生きるという人もいるという事ですね。人それぞれですからね。 |
博士: | そうじゃ。そうした選択は患者さんの側にあるべきじゃ。 |
助手: | 医療の側が、患者さんの希望に合わせるべきですよね。 |
博士: | しかし実際には、患者さんの希望に添うようにするというのは並大抵の事ではできない。患者さんが家に戻りたいと思っても、支えられる家族がいるのか、病状が変化した時に対応できる病院や医療機関が近くにあるのか、痛みや苦しみのコントロールが在宅で可能なのか等々、問題は山積みじゃ。 |
助手: | そうですね。家族、地域の問題にかかわってきますね。 |
博士: | さらに言えば、そのための第一歩に、患者さんへの病気の告知という問題がある。 |
助手: | 直る見込みのない癌の場合の告知は難しいですよね。 |
博士: | 真実をそのまま話せば良いというものではないはずじゃ。 |
助手: | 「あなたは癌で、数ヶ月の命です」と、いきなり言われても、吉田さんのようにしっかりと受け止めて、残る時間でやるべき事を冷静に判断して行動する、というのは普通の人にできる事ではありませんよね。 |
博士: | うむ。日本のような土壌では、末期癌の告知には条件がある。 |
助手: | どんな条件ですか? |
博士: | 1989年に厚生省の「末期医療に関するケアの在り方の検討会」が出した告知の4条件は、1,告知の目的がはっきりしている事、2,患者に受容能力がある事、3,医師と患者・家族の間に十分な信頼関係がある事、4、告知後の患者の身体面および精神面でのケアと支援ができる事、となっている。 |
助手: | なるほどね。吉田さんの場合にはそれが全て整っていたというわけですね。 |
博士: | さらに、作家の柳田邦男氏は、告知後の患者のQOLを確保するには3つの条件が必要であると述べている。1,身体症状の緩和ケア、具体的には痛みなどのコントロールじゃ。2,こころのケア、これについては、場合により精神科医やカウンセラーが必要になる。3、人生の完成への支援、と言うものじゃ。1と2をベースに3が実践されれば、最高のターミナルケアになるとしている。 |
助手: | そうか。吉田さんの場合には、インドネシアでの標本の展示、博物館の建設が3にあたるわけですね。 |
博士: | うむ。3については、たとえ完成することができなくても、できるだけの事はやったのだと納得、あるいは、思いを残さないところまで到達できるように支援できれば良いんじゃ。 |
助手: | 吉田さんの場合で言えば、展示会を自分の目で見るところまではいけなかったけれど、りっぱに生徒さん達が引き継ぐ事がわかっていたから、心は満たされていたと言う事ですね。 |
博士: | うむ。「自分で立派に死を創れた」すばらしい例じゃった。 |
助手: | 博士も、そろそろ近いですから、いつもそんな事を考えているんですね。 |
博士: | ほーーんと、それだけが心配じゃ。生徒や助手が頼りにならんからとても安心して死ねん。特に君の事が心配でな。立派に一人で生きていけるのか、酒癖は直るのか、ブロックM通いは直るのか、嫁さんはもらえるのか、等々。 |
助手: | いやー、そんなに心配してもらって恐縮です。博士、安心して往かれるためにも、早く私にお嫁さんを紹介してくださいよ。愛がほしーい。お金で買えない愛が。 |
博士: | うーーん。当分、わしは長生きせんといかんようじゃな。 |
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