心的外傷の話
1998年10月
助手: | 博士、日本ではいやな事件が続いていますね。 |
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博士: | 毒物混入事件の事じゃな。特に夏祭りのカレーに猛毒のヒ素を入れた事件は、本当に驚かされたな。 |
助手: | ほんと、保険金目的だか何だか知りませんが、関係の無い大勢の人を巻き込むやり方は最低ですよね。また、その後、それをまねするばかなやつが次々と出ていますね。 |
博士: | ウーロン茶に青酸カリを入れた事件や、クレゾール入り飲み薬の話などじゃな。 |
助手: | ええ、日本のコンビニではウーロン茶を飲むにも、缶をひっくり返して穴が開いていないかを確かめてからじゃないと安心して飲めないって言うんですから、本当にいやな時代になっちまいましたね、ご隠居。 |
博士: | ご隠居? 君は八っつあんか? まあ、そういう点では、当地の方がまだ安心かもしれんな。 |
助手: | そうですよね。混入していたとしても、せいぜい大腸菌やアメーバ位ですから、下痢する程度ですもんね。命まではとられませんよね。 |
博士: | まあ、当地では今のところ猛毒物質の混入事件は起きていないな。それにしても、こうした事件が問題なのは社会に大きな不安を与える点じゃ。特にカレーの事件では、地域の住民はお互いに疑心暗鬼となり、心理的にも大きな外傷を受けているようじゃな。 |
助手: | そうでしょうね、大きな心の傷になっているでしょうね。 |
博士: | 無意識の抑圧になった原因の事を、心的外傷、トラウマと呼んでいる。特に子供の場合に、楽しいはずの夏祭りでカレーを食べた事により酷い病気になったり、友達が死んだりといった地獄絵図は、大きな心的外傷に発展する可能性がある。心的外傷は将来的な人格形成にも影響を与えかねない。 |
助手: | 夏祭りという天国から地獄に落とされる訳ですから、そのショックは計り知れないですね。でも、将来的な影響というのは、具体的にどんな事ですか? |
博士: | こういう状況になると子供達は親からいろいろな注意を受ける。外で物を食べる時は臭いに注意しなくてはいけない、飲み物も毒が入っているかもしれないから一気飲みはいけない、祭りそのものにも行ってはいけない、近所の人だからといって信用してはいけない等々、否定的な厳重な注意を受ける事が予想される。 |
助手: | そうですね。コンビニの飲み物にまで毒入りの可能性があるんじゃ、子供の命を守る親としては、そう言わざるをえないですよね。 |
博士: | こうした親の言葉や態度による禁圧は、子供自身の心に深く染み込み、のびのびと遊びたいという欲望を押しとどめる抑圧となり、心に緊張を強いる事になる。 |
助手: | なるほど、そういった禁圧を受けると、自由に遊べなくなりますね。 |
博士: | うむ。この緊張は意識するレベルのみならず、無意識のレベルでも残る。こうした無意識のレベルでの長期にわたる緊張は後々まで影響を与える。不安定な人格が形成されたり、神経症の発症の引き金になる事がある。 |
助手: | ノイローゼになってしまう、という事ですか? |
博士: | 神経症というのはよく使われている単なるノイローゼではなく、不安に対してなされる通常とは異なる防衛機構の症状の事じゃ。まあ簡単に言えば、環境の変化や人間関係で不満や葛藤に陥った時に不安が高まり、これを防衛するために退行、つまり子供に返ったようになってしまったり、強迫観念におそわれたり、といった異常な反応をしてしまう状態じゃ。 |
助手: | 強迫というのは、ねんごろになったはずのカラオケのおねえちゃんの男が突然現れて金をせびられるという事ですか? |
博士: | 随分具体的だが、その脅迫ではない。手が汚れている事が気になって一日に何十回も手を洗ったり、鍵を閉め忘れたのではないかと思って何回も家に戻って確認してしまうといった、自分でもおかしな事と思いつつも不安がつのるため、そうせざるを得なくなる感情を強迫観念と言っている。 |
助手: | 私も時々、事務所の鍵を閉め忘れたのではないかと思うことがありますけどね。 |
博士: | 君の場合は、実際に閉め忘れておる事が多いじゃないか。それは、神経症ではない。単に性格がルーズなだけだ。 |
助手: | そうですか。いやー、博士が鍵を閉めてくれていたんですか。閉め忘れた気がしただけではなかったんですね。 |
博士: | 神経症ばかりではない。宮崎勉の事件や最近の多くの青少年犯罪で、従来、精神疾患と考えられてきた犯罪の一部に、幼少時の心的外傷が関係するのではないかと推定されるものもあるんじゃ。そして、こうした犯罪は確かに増加している。 |
助手: | それは大きな問題ですね。そういう犯罪に関係する幼少時の心的外傷と言うのは、暴力や性的虐待の事ですか? |
博士: | もちろん、それもある。しかし一番多いのは、幼少期に愛情面で欠損のある環境で育った、という体験じゃ。 |
助手: | 母親がいなかったり、両親が離婚していたり、というケースですか? |
博士: | 両親がそろっているケースでも、特に幼少期の母親を求めている時期に適切な愛情が得られなければ、それは心的外傷になる。逆に、両親が欠けていても何の問題もなく立派に育っているケースも多い事は改めて言うまでもない。 |
助手: | 心的外傷自体が同じでも結果が異なってくるのは何故ですか? |
博士: | 生まれながらの性格に加え、育った環境、ないしその患者の個人史が大きく影響すると考えられる。 |
助手: | 昔に比べて、こうした子供の問題が増えているのも環境の違いでしょうか? 母親が子供と接する時間だけを見れば、むしろ昔より長いと思うのですが。 |
博士: | 確かにな。子供の数も減っているし、昔の親は今以上に忙しかったから子供にかまっている時間は少なかった。子供をめぐる環境の面で昔と大きく異なるのは核家族化と地域社会の役割じゃ。 |
助手: | 核家族と言うのは、おじいちゃん、おばあちゃんがいない家族ですね。 |
博士: | うむ。昔は両親がいなくても、祖父母あるいは歳のいった兄弟、おばさんやおじさんが家にいて、誰かしらが子供に目を配っていた。子供が家で一人になるという状況は少なかった。また地域社会の状況も違っていた。近所同士の繋がりが強かったから、外で遊んでいる子供が、どこの誰かを皆知っておったし、同じ村の子供として他の親達も目をかけていた。わしなども、外で悪い遊びをしていると、近所のおじさんによく怒られたもんじゃった。 |
助手: | そうか、それに比べると今は近所づきあいが少ないからマンション等で隣に誰が住んでいるかすらわからない事もありますよね。学校も、先生はカリキュラムに追われて忙しいですから、とても一人一人に目をかける余裕はないみたいですしね。そうして考えてみると、確かに子供が一人になる場面はむしろ昔より今の方が多いのかもしれませんね。 |
博士: | 昔の子供は、母親以外でもさまざまな人から目をかけられている、愛されていると感じる事ができた。それに比べて現代では、母親からそれを得る事ができなければ、見捨てられているという感情を持ってしまう事になる。 |
助手: | 現代の家庭では子供にとって母親のみが見守ってくれる唯一の存在ですからね。 |
博士: | うむ。しかし母親の側から考えてみると、子供の面倒をたった一人で見ている訳であり、子育てで問題があった時に相談できる相手がいないとストレスが貯まる一方じゃ。母親だって精神的に疲れている時もある。 |
助手: | ご主人の協力もなく孤軍奮闘では、確かにイライラしてきますね。 |
博士: | うむ。子育てでストレスが貯まってくれば、母親自身の情緒も不安定になり、子 供が本当に何を望んでいるかに気づくことができないし、適切な愛情を与えられない。子供の言い成りになる事が愛情ではないぞ。子供の心の奥底にある感情を理解して対処する。与える事もあれば、説明して従わせる事も必要じゃ。 |
助手: | なるほどね。一緒にいて子供の自由にさせれば良い、というものではありませんよね。母親に気持ちを理解してもらわなければ、子供は愛情面での不足を感じる。それが心的外傷になる、というわけですね。 |
博士: | そういう事じゃ。いわゆる「良い子」だった子供が、思春期になってから問題を起こしやすくなるのもこれと関係している。 |
助手: | それは、どうしてですか? |
博士: | わがままな子であれば、強く自分を主張する事により、母親に何とか自分の気持ちを気づかせる事ができる。母親にとっても、わかりやすい。 |
助手: | 「良い子」だとは主張しないから、母親が子供の本当の気持に気づかない。 |
博士: | そうじゃ。また、子供というのは親を見て、親の自分に対する願望を読みとり、それに合わせようと努力するものじゃ。「良い子」は、合わせるのがうまい。一方、わがままな子は、親に合わせようとしない。 |
助手: | へー、「良い子」の場合、子供の側が、親に合わせているんですか。 |
博士: | そうじゃ。しかし、こういう合わせていく努力というのは長期にわたれば心に緊張を与える事になる。あるいは緊張を感じないとしても思春期になるとこうして作り上げた仮の自分と本来の自分とのギャップを感じて耐えられなくなり、情緒が乱れてくる。これが家庭内暴力や不登校、拒食症といった症状を引き起こす原因になると考えられている。 |
助手: | 子供の頃さびしかったのにそれを我慢して親にとっての良い子像を作り上げていた事による疲れ、鬱積が思春期以降に爆発する、という事ですね。 |
博士: | 新聞にも出ていたが東洋大学の最近の調査によると、米国、中国、韓国、トルコ、ポーランド、キプロス、日本の7カ国の調査で、親と子供の心理的距離は、日本が一番遠かったという結果が出ている。昔の日本であれば、結果は違っていたと思われる。 |
助手: | そうですか。日本も昔の方が家族の繋がりは強かったのかもしれませんね。家族の絆という面で、現代の日本は危機的状況にあるんですね。 |
博士: | うむ。この点で日本はインドネシアを見習う必要がある。 |
助手: | 経済的には危機的な状況にあるインドネシアも、子供の将来という点から見ると、日本よりましなのかもしれませんね。 |
博士: | そうだな。日本も経済面のみならず、子供の教育の問題でもしっかり足元を見直さないと将来は不安じゃな。 |
助手: | 私も、そろそろ足元を見直して、将来設計を考える時期ですかね。 |
博士: | 君の場合は、足元もそうだが、事務所を出る時には後ろも振り返って、きちんと鍵を閉める事に気を配ってもらいたいもんだな。 |
助手: | いやー、鍵をかけたか気になることは気になるんですがね。 |
博士: | まあいいや、と考えそのままにしているようじゃ、ちっとも気になっているとは言えんぞ。少しは、神経を使ってもらいたいもんじゃ。 |
助手: | 事務所を出た後、今日はどこの店に行こうかとかには気を使っているんですがね。 |
博士: | ほんとに良い性格をしとるな。のびのびと生きており、相手に合わせようとしとらんものな。トラウマどころか、これっぽっちのストレスも感じないじゃろう。 |
助手: | そんなに誉めてもらっても困りますけどね。 |
博士: | 誉めとらん。こっちが君に合わせなければいかんから、疲れるんじゃ。 |
助手: | まー、気にせずアフター・ファイブはパァーッと行きましょうよ、博士も。トラウシだかトラネコの事は忘れて。 |
博士: | ウシやネコではない、ウマじゃ。せっかくいろいろと説教してやっても、君はちっとも聞いとらんな。まさに、ウマの耳に念仏じゃな。 |
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