生活の質の話

2000年7月掲載


助手:博士、今回が最終回ということで、何か有意義なお話をしなければなりませんね。
博士:わしはいつも、読者の皆さんのお役に立てるような話を、と思っているぞ。
助手:でも「ゴルフの話」、あれが医療情報かいな?って批判を聞きましたが。
博士:そうか。ちょっとはずれておったかな。
助手:今回のタイトル「生活の質」というのは、quality of wife ですね?
博士:妻の質について話してどうしようと言うんじゃ? 早くもボケておるな。それも言うならquality of lifeじゃ。医療の現場でここ10年言われるようになった言葉でな。特に末期医療などにおいて、単に延命する、そのために患者の残りの人生における生活の質を落とす事は止めよう、という考え方じゃ。
助手:奥さんの質についても話して欲しかったんですが。まあ、ともあれ人生における生活の質ですね。つまり苦しい思いを強いられる、あるいは意識もないのに無意味に生かされているよりも、最後に残された時間をより充実したものにした方がいいという事ですよね。
博士:うむ。医療の側は、患者の希望に応じて、単なる疾患そのものに対する治療を行うばかりではなく、疼痛除去や、食べられるようにするための処置、自宅で家族と共に生活できるようにするための処置等を考慮して、場合によっては疾病の治療より優先させる、という事じゃ。
助手:最後まで家族と共に生活する、という点ではインドネシアの方が進んでいるかもしれませんよね。
博士:そこなんじゃ。もちろん、疾病の治療レベルについては日本とインドネシアでは比較にならない。しかし、いざ手術となれば一族皆がかけつけて患者を励ます。手術が終わるまで手術室の前で数十人で延々と待つ。手術が終われば子供や孫達がずっとベッドサイドにいて身の回りの世話をする。痛みを訴えれば一晩中でも患部をさすってあげる。
助手:インドネシアでは、痛みを訴えてもなかなか看護婦さんが痛み止めの注射をしてくれないらしいですね。そうした医療側の足りない分を家族が補うんですね。
博士:うむ。そして死の床でも、ある者は手をにぎり、ある者はベッドサイドでむくんだ足を患者が落ち着くまでさすっている。あの姿を見るにつけ、自分が死を迎えるにあたり日本とインドネシアのどちらが幸せか、考えてしまう。
助手:日本だと今は家族もそこまでしませんね。介護保険制度が始まっていますが、所詮は他人からのサービスですからね。
博士:そもそも日本の病院は完全看護という体制になっているから家族が付き添いを希望してもできない。介護も、身内より他人からのサービスの方が良い、という選択をしている。
助手:そうですね。身内を煩わせるくらいならお金で解決を、と多くの人は考えてますね。
博士:この点ではインドネシアから学ぶ面は多い。しかし、先ほども述べたが、疾病自体の治療レベルにおいては、日本より何十年も遅れていると決断せざるを得ない。最期をインドネシアで迎えるつもりの人なら良いが、そうでないなら、また生還して仕事に頑張ろうと思う日本人であるならば、帰国して治療するに越したことはない。
助手:どんな病気でもですか?
博士:チフス、デング熱、アメーバ、マラリアといった熱帯特有の感染症であれば、当地で十分治療できるし、日本よりも治療環境が整っている面もある。しかし、癌の手術、癌以外でも大きな手術、特に糖尿病や高血圧といった慢性疾患をもっている場合の手術、子供の手術などの場合は、できれば日本、少なくともシンガポールでした方が良い。
助手:博士は連載の第一回からそう言っていますが、ここ数年で改善されていませんか?
博士:残念ながら全く状況は改善されておらん。ジャカルタ然り、いわんや地方じゃ。そして、インドネシアが現状の制度のままで行くならば、こうした医療事情は数十年改善されない可能性もある。
助手:そうなんですか。大分悲観的ですね。ところで慢性病には生活習慣病も含まれますね。最近増えているとか。
博士:うむ。インドネシア人にも日本人にも増加している。この病気はもちろん遺伝が関係しているが、食習慣や生活を改善する事で、リスクをコントロールできる事がはっきりしている病気じゃから、医者は口を酸っぱくして言っているんじゃ。
助手:タバコの害も病気との関係がはっきりしているんですよね。
博士:そうじゃ。高血圧があってコレステロールが高くてタバコを吸っている肥満者は、10年以内に心筋梗塞や脳梗塞といった病気になる率がそうでない人に比べて何十倍も高い、とはっきりわかっているんじゃ。
助手:でも、そんな生活をしていても長生きしている人もいますよね。
博士:うむ。皆そういう言い訳をする。そのために、その発症の個人差を調べるために遺伝子の解明が急がれている。
助手:でも、遺伝情報が全てわかってしまうと味気ない感じがしますが。
博士:遺伝情報が全てを決定するわけではないし、その情報に従うかどうかも、その個人に任される。
助手:リスク、危険度は情報として提供するけれど、実際にどういう選択をするのかはその人次第、という事ですね。
博士:そうじゃ。酒無くして、タバコなくして、好きな物を食べる事なくして、さらに性なくして何の人生と思う人もいる。もちろんタバコは本人のみならず周囲の人の健康を害する。酒も飲み方によっては周囲の人の気分を害する。異性との問題も、君のようにいろんなトラブルを起こす等々、個人だけの問題で済まない事も多い。じゃが、そうした体に悪いが好きな物を我慢して長生きしても仕方がないと考える人もいる。そもそも寿命は長ければ良いものではないかもしれん。寿命ではなく、問題はその充実度にあるとも言える。
助手:すいません。その節は女性問題で博士にもご迷惑をおかけしました。要は、他人に迷惑をかけないという条件で、個人がどんな生活をするかは自由だという事ですよね。ここでも生活の質の話、につながるわけですね。
博士:そうじゃ。どんな人生を歩むのか、それが問題じゃ。子供が成人するまでは健康で働きたいという人生もある。それならば、その後は好きなようにして過ごしても良いじゃろう。あるいは、できるだけ長く生きる、そして次の時代を見届けたいという家康やトウショウヘイのような人生もある。
助手:家康やトウショウヘイですか。彼らは相当健康に気を使っていたらしいですね。なるほど彼らのように長生きして最後に勝者になるという世界もあるし、太く短くという信長のような人生もある訳ですね。
博士:そうじゃ。それぞれ個人の人生に合わせるために、医療としてはできるだけの情報を提供する、という事じゃ。長生きしなくても良いといっても、生きている間ある程度健康でなければ達成できない事もあるじゃろう。改めて言うまでもないが、医療は思想ではない。個人それぞれの目的を達成するために必要な情報の一つに過ぎない。
助手:トウショウヘイや家康のような長生き人生と尾崎豊のように短く走り抜けた人生。私はどっちにしようかな?
博士:ずいぶんと格好いい例ばかりじゃが、問題は長さではなく目標じゃな。
助手:もう疲れがたまっているけどまだ週末でないので休めない曜日、ですね。
博士:え? なんだそりゃ? それは、木曜だろ。わしの言っているのは目標、指標の事だ。
助手:ええ、会社を辞める時に書く物ですか?
博士:そりゃ辞表じゃ。指標、わからんかな? 何をやりたいかという方向じゃよ。
助手:ああ、おしっこを貯めておくところですね。
博士:それは膀胱じゃ。君も最終回という事で、一生懸命ボケてくれているようだが、いずれにしても若い人には有意義な人生を送ってもらいたいものじゃ。
助手:有意義というより私の場合は遊技な人生ですかね。
博士:なるほど遊びが生活の中心だからな。遊ぶ事も大切じゃが、若い時の苦労は買ってでもせよと言われている。楽な道ばかり歩いてはいかんぞ。
助手:え? 若い時は勝手にしろですか?
博士:いかん。全然聞いておらんな。
助手:やー、でもインドネシア生活は楽しいなー。これで博士さえいなければ・・・
博士:少し鍛え直す必要がありそうだ。君も一緒に連れて帰るぞ。
助手:え? ちょっと、いろいろと整理する事もありますから、もう数ヶ月、否、半年か1ー2年延ばしてもらえませんか?
博士:だめだ。既に発令も出ている。今晩帰国するから、荷物をまとめておくように。
助手:えー? 随分急ですね。博士、先に空港に行っててください。少し立ち寄りたい所もあり、遅れるかもしれないので、パイロットに待ってくれるように頼んでくれますか?
博士:この後に及んでどこへ行くのか知らんがそうはいかん。パイロットにも人事異動があり、早めに帰国するように指示されているらしい。
助手:少しくらい待ってくれても良さそうですが、パイロットの人事異動って、ジャカルタ勤務から、どこへ転勤ですか? 
博士:日本、と相場は決まっている。
助手:他にも国はありますが、それはまたどうしてですか?
博士:パイロットだけに、機長発令ってな。
助手:おっ、来ましたね。我々と同様、帰朝・・ですか。たいへん貴重なお話でした。

 


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