うつの話

1998年5月


助手:博士、先日の新聞にも出ていましたが、ジャカルタでも精神科の患者さんが増えているそうですね。
博士:うむ。最近の経済危機と平行してカウンセリングを希望する患者が増加し、フサダ病院の精神科病棟も昨年7月のクライシス以後満床の状態である、と報道されておった。その多くは、突然の解雇が原因のようだな。
助手:まゆから糸がとれなくなったんですか?
博士:?? それは蚕じゃろ。解雇、くびの事じゃ。
助手:くびですか。そう、突然くびになっては、精神的におかしくなりますよね。
博士:日本のように失業保険もないしな。家族ともども路頭に迷ってしまう事になる。
助手:社会状況を考えると、まだまだ続きそうですね。
博士:うむ。統計的に見ても、うつに悩んでいるジャカルタ市民は3年前より確実に増加しており、5人に1人の市民は感情障害に苦しんでいると言われている。
助手:感情障害というのは何ですか?
博士:気分障害と置き換える事もできるが、躁病と鬱病と呼ばれている疾患の総称じゃ。
助手:そう、と、うつですね。それにしても難しい漢字ですよね。漢字を見ているだけで気分が落ち込みますよね。
博士:精神症状の中心をなすものが感情の障害であり、感情が高揚し促進される状態を躁状態、反対に憂鬱となり意志発動が抑制される状態をうつ状態と定義している。
助手:何だかわかりませんけど、要は、異常に気分が明るいのがそうで、落ち込んだのがうつ、ですね。
博士:そう簡単ではない。異常に、という点が重要じゃ。
助手:我々でも、当地へ来た当初はいろいろと苦労しますので、うまくとけ込めないと気分が暗くなりますよね。
博士:それは、誰にでもある異文化適応の課程の一時期の現象じゃな。
助手:上手に乗り越えれば、適応できるんでしたよね。
博士:うむ。そこでつまずくとうつ状態になる事がある。具体的には、睡眠障害、食欲・性欲低下、頭痛・めまい、憂うつな気分、自責の念、自殺願望などの症状が出現してくる。
助手:そこまで落ち込みが進むと治るのもたいへんでしょうね。
博士:通常の場合経過は良い。きちんと休養を取り、適切な薬を飲めば十分に回復する。
助手:薬と言うのは、抗うつ薬ですか。飲まないと治らないんですか?
博士:最近の研究によれば、うつの状態というのは脳内の神経伝達物質、あるいは受ける側の神経のレセプターの異常のためモノアミンの機能的欠乏があるとされている。抗うつ薬はセロトニンやアドレナリンといった神経伝達物質の神経終末での再吸収を阻害する事によりその異常を改善させる働きを持っている。
助手:え? ちょっと待って下さい。モノアミンていうのは何ですか? 二人組の歌手の片割れですか?
博士:♪私まーつーわ♪、じゃない。モノは一つの、アミンというのはアンモニアNH3の水素原子をアルキル基Rで置換した化合物じゃ。
助手:?? 聞かなきゃよかった。
博士:要するにじゃ、脳内で神経間の伝達をする物質が足りなくなっている。従ってそれを補うために薬を飲む事が必要ということじゃ。
助手:なるほどね。精神科の病気も解明してみたら物質に行き着いたわけですね。
博士:そういう事じゃ。こころの病気だからといって、こころの持ち方といった精神論に頼り過ぎてはいけない。むちろん、精神療法も治療においては重要な柱になる事もあるが、うつ病に関しては、とりあえず薬を飲んで物理的に改善する必要がある。頑張ろうとしたって、足りない物質は補えない。
助手:そうか。車で言えばガソリン切れの状態なんですね。
博士:そうじゃ。そういう意味で、うつ病も肺炎等の病気と治療は変わらない。うつで会社を休むと、怠けているととられるかもしれんが、高熱があって仕事を休んでいる肺炎の人に、誰も怠けているなどとは言わないじゃろ。肺炎では、入院して安静にする、そして抗生物質を服用する。
助手:うつ病においても、休ませて薬を与えるのが治療という事ですね。うつ病の場合に決して励ましてはいけない、というのもその辺に関係しているんですか?
博士:そうじゃ。実際に神経伝達物質が足りなくて苦しんでいるのに、励まして尻を叩く事はむしろ逆効果になる。ガソリン切れの車を目一杯ふかすのと一緒じゃ。
助手:そんな事をしていたら、今度はバッテリーまで切れてしまいますよね。
博士:うつは、きちんと休んで薬を飲めば、必ずよくなる病気だと理解すべきじゃ。
助手:うつ病になる原因は何ですか? やはりストレスですか?
博士:原因とは言えないがストレスが大きな誘因のひとつである事は間違いない。しかし、体質、性格といったものも重要じゃ。
助手:うつ病になりやすい人の性格というのはどんなものですか?
博士:仕事に熱心で凝り性、徹底的、正直、几帳面、強い義務感、ずぼらができず、人から信頼され、模範青年、模範社員などと誉められるような性格の人が多い。
助手:すっごく立派な人じゃないですか。
博士:そうじゃな。特に日本的社会においては理想とされていた性格じゃ。しかし言い方を変えれば、仕事以外に何の趣味もなく、人生を遊ぶ事を知らない、余裕がなく息の抜きかたを知らない人間像が浮かび上がってくる。
助手:遊びを知らない模範青年か・・。私もうつ病になりやすそうですね。
博士:君は全く心配いらん。ストレスも無さそうだしな。
助手:簡単に切り捨てられてしまいましたね。まあ、いいか。でも周囲にはそういう性格の人は多いですよね。
博士:そうじゃな。じゃから、同僚や上司は、むしろそういう模範的青年、社員の精神衛生にこそ細かに気を使ってやる必要がある。
助手:具体的には、どのような気配りをすれば良いのですか?
博士:そういう社員は、自分から仕事がきついとか、変えてくれとかいった愚痴や不平を言わない。だからこそ模範社員なんじゃが、結局倒れるまで働いてしまう傾向がある。周囲、特に上司は目を配って、その前に負荷を減らしてやる必要がある。
助手:いつも文句や不平を言っている人は大丈夫なんですね。
博士:そうじゃ。不平や文句の多い社員は適当にガス抜きが出来ている。一方、模範社員は自ら休みたいとか不平なども言わないから精神的にたまってしまう。強制的にでも定期的に休みを取らせた方が良い。定期的に休ませる事で、枯渇する神経伝達物質を補う時間を与えてやるんじゃ。
助手:でもそういう真面目な人は、休暇をとるとかえって仕事が気になるんじゃないですか。
博士:じゃから、強制的に取らせるんじゃ。義務の休暇なら仕方が無い、と考えるじゃろう。
助手:博士、前回お休みをいただいたのはいつでしたっけ? もう随分長いこと働き詰めのように思うのですが。
博士:レバラン休みじゃ。ついこの間ではないか。
助手:そうでしたっけね。でも、最近の経済不安、社会不安で大分緊張した日々が続きましたので、ちょっと疲れ気味です。たまに気晴らしにブロックMに行ってますが、最近は閑散として活気がありませんから今一盛り上がりにかけますしね。週末ゴルフに行ってもなかなか良いスコアが出ないので、かえってストレスが貯まる事もありますしね。ルピア安で日本のものが安くなっているので、買い物もけっこうしましたが、その疲れも出ているようですしね。やー、なかなか気晴らしが出来なくて・・・
博士:じゅーーーぶん気晴らししとるじゃないか、君は。
助手:いやー、気晴らしは出来ても、やはり休暇は別物で、しっかりとらないと私のような模範部下がうつ状態になったら、やはり上司である博士は困るでしょうから・・・
博士:君のようなタイプは絶対うつにはならん。それにしても、最近の若者というのは、真面目すぎて困るものもいれば、君のように休暇休暇とうるさいやつもおるし、本当に管理者としては難しい時代になったものだな。
助手:うるさいですか? でも今の博士のセリフ、うなづいて読んでいる人も多いかもしれませんね。
博士:まあ、滅私奉公のような過去の日本のやり方をかえる時代であり、新たな管理の仕方を模索すべき時期に来てしまったという事かもしれんな。
助手:博士、それはともかく私の休暇の事を何とか。
博士:うーん。君は休暇と解雇のどちらが良いのかを考えた方が良いかもしれんぞ。
助手:えっ? 博士、当分休まず働きますので、先ほどの話はなかった事にしてください。話題も変えてください。
博士:わかった。感情障害の話は、別の機会に、うつそう、てな。
助手:?? 洒落ですか・・・。あー、忙し、忙し。

 


コメント

  1. ジャカルタでの当時の現地の世相を踏まえながらの鬱談義を興味深く、そして、オチには笑いながら拝読させて頂きました。
    カナダでもコロナ禍になってから抑うつと不安を訴えるクライアントが増えています。

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    1. コメントありがとうございます。コロナ開け、明るく笑える未来が来ると信じています!!

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著書:想像を超えた難事の日々