緊急時の話

1998年7月


助手:博士、とりあえず落ち着いてきましたかね。
博士:予断は許されん。経済的な状況は変化が無いから、危機はまだ続くかもしれん。
助手:そうですね。米や油といった物の値段の高騰は、相当庶民にこたえているでしょうからね。ところで5月の脱出時、邦人の被害はどうだったんでしょうか?
博士:怪我人はごく少数だったと聞いておる。病気の面でも幸いにしてデング熱も下火になっておったから、病人の発生も少なかったようじゃ。日本人医療相談室の窪田先生が最後まで残ってプレジデントホテルにつめておったが、その1週間での来院患者数は16人。加えて電話相談もあったが、そのほとんどは軽症の患者ばかりだったようじゃ。AEAクリニックや協栄メディカルも開いていたが、患者数も非常に少なかった。
助手:そうですか。病気や怪我の面では、今回の事態はたいした事はなかったんですね。
博士:結果的にそう言えるが、被害が少なかったのはたいへん幸運だったと考えた方が良い。5月20日に大規模な衝突が起きていたら、あるいはもっと深刻な事態になっていたかもしれんぞ。
助手:そうですよね。暴動も13日、14日で終息したのでこの程度の被害で済んだんでしょうね。
博士:うむ。それでもインドネシア人は約1,200人も死んでおる。
助手:今回、約1万人の邦人が出国したんですね。空港はごったがえして蒸し風呂状態でしたよね。
博士:うむ。空港で具合が悪くなった人も数人いたようじゃな。
助手:今後もこうした事態があるかもしれないとすると、何を準備したら良いですかね。
博士:幸い、今回は当地の病院は機能しておったから安心じゃったが、外出できなくなる事もあるし、ある程度の医療品の備えをしておった方が良いな。
助手:そうですね。確かに戒厳令状態じゃ、病院に行けませんからね。具体的には何を用意したら良いですか?
博士:緊急時の医療用品としては、まず包帯用材料じゃ。
助手:包帯も買っておかないといけませんか。カットバンじゃ足りないですか?
博士:それだけでは足りない。怪我をした時、出血した時の初期治療はたいへん重要じゃぞ。まず幅広の包帯を数本。それに三角巾、消毒済みのガーゼや脱脂綿、さらに絆創膏、止めるための安全ピン、ガーゼを扱うピンセット、骨折に備えて副木も必要じゃ。また止血用のゴム管もあると良い。
助手:それぐらいなら、街で買えますね。薬はどうですか?
博士:バファリンなどの鎮痛剤、当地ならパナドールで良い。また下痢止め、逆に下剤も用意しておいた方が良い。それと消毒薬じゃ。さらに持病があり薬を定期的に内服している人は、今の内に多めに用意しておく必要がある。今回、窪田先生に連絡が入ったケースでも、慢性病の人の薬の相談が多かったようじゃな。
助手:毎日飲んでいる人の薬がなくなるというのは危険ですよね。
博士:うむ。上記に加え、生理用品や使い捨てのおむつ、ベビーパウダーやベビーオイルも用意しておいた方が良い。
助手:女性や子供さんがいる場合、特に重要ですよね。
博士:それと眼鏡やコンタクトを使用している人は、予備の眼鏡を用意しておかんといかん。清潔な水が大量に使用できない状況ではコンタクトは頼りにならないぞ。
助手:目が見えなければ、逃げられないですからね。眼鏡は大事ですね。
博士:まあ、医療用品はその位じゃが、もちろん水や食料品もある程度備蓄しておいた方が良い。それとトイレットペーパーもな。
助手:水が使えれば、インドネシア式に手で、という方法もありますけどね。
博士:水が使用できなくなる状況も考慮すべきじゃ。
助手:昨年のイリアンジャヤでもそうでしたけど、水が無くなると伝染病が蔓延しますよね。コレラとかチフスとか。
博士:うむ。怪我ももちろんじゃが、そういう時期に病気になったらたいへんじゃからな。病院の開設状況にもよるが、早期にシンガポールや日本へ行く事を考慮しなければならん。
助手:博士、そう言えば、経済危機で薬が不足していると以前に報道されていましたが、どうなんですか? その後は?   
博士:うむ。輸入価格の高騰による薬剤や医療品の不足が報道され始めたのは今年に入ってからだが、この面での状況は一向に改善されていない。日本も医薬品の援助を開始しているが、まだまだ十分な量ではない。
助手:公立病院では、公務員は保険が使えるので医療費はタダだったはずですよね。
博士:現在はシステムが変わり、公務員でも一部を負担しなければならないようになった。このため、高額になる人工透析などの治療を止めざるをえなかった例が後を絶たない。
助手:透析を止めたら死んでしまいますよね。
博士:そうじゃが、仕方がない、というまでに追い込まれている。国立のチプト病院あたりでも医療費の前払いは当たり前の状況で、それが出来ない場合には入院できない。
助手:貧乏人は死ね、という感じですね。邦人が利用している病院はどうですか? そこでも薬剤は不足しているんですか?
博士:問い合わせた所、日本人医療相談室、AEAクリニック、協栄メディカルにおいては、薬剤の在庫は十分にあるとの事じゃ。私立病院でも現在のところは薬剤の不足があるとは聞いていない。しかし、華僑系の金持ちの数が減り、病院利用者が減ってきているようじゃから、この先これらの病院の経営がどうなるかは不透明じゃ。
助手:そうすると、当地で長い入院になりそうな時は、日本へ戻る事を考えた方が良いですかね。
博士:そうじゃな。それと輸血の問題も出てきている。
助手:輸血ですか? これは、以前に教えてもらった病院(メディストラ、プルタミナ、アブディワリオなど)であれば再検査できるので安心じゃなかったのですか?
博士:まあ、確かに再検査をきちんとしてもらえれば、4項目(梅毒、エイズ、B型肝炎、C型肝炎)については、ほぼ安全かもしれん。しかし、そもそもの供給元であるインドネシア赤十字の血液が最近あやしくなってきたんじゃ。
助手:それは、どうしてですか? 
博士:経済危機のあおりを受け、献血のボランティアが減ってきているんじゃ。
助手:そうですか。確かに、自分の飯の心配しなければならない時に献血している余裕はありませんよね。
博士:うむ。このため、どうも売血ブローカーが暗躍しているらしい。ベチャの運転手あたりに金を払って、血液を買っている連中がいるんじゃ。
助手:えー、それは怖いですよね。ベチャの運転手を差別するわけではないですけど、エイズを含めた感染症のキャリアーが多いのは、どこの国でもドライバーと相場は決まっていますよね。
博士:そうじゃ。場合により売春婦が血を売る事もあるかもしれんしな。
助手:そーーか。そうすると当国での輸血も少し危なくなっているという事ですね。
博士:「とまとの会」も、邦人数激減で利用が難しくなっておるしな。もし輸血が必要になったら、病院でしっかり再検査をしてもらう事、場合によりシンガポールへ出る事も考慮した方が良い。
助手:今回の騒動で、医療事情も変わってしまったんですね。
博士:治安面での危険度は下がったかもしれんが、医療衛生面での危険度は上昇したままと言える。
助手:精神衛生面の危険度はどうですか? ゴルフも相対的に安くなりましたし、ブロックMあたりも単身者が増えたためか、前よりも活気がある位ですけどね。
博士:うむ。単身のお父さん達は時間を持て余しておるようじゃな。しかし、最近イスラム系団体の声が強まり、酒販売が厳しくなっているという話も伝わっており、そっちの危険度も上昇するかもしれんぞ?
助手:えっ? そりゃたいへんだ。今の内に早く飲みに行っておこう。
博士:その前に、医療品などの準備をしておくのが先だろう。
助手:そうですね。今の内に消毒用のみならず飲料用アルコールも確保しておいた方がいいですよね。それと、使える内にルピアを使っておいた方がよさそうなんで、さっそく飲みにくりだす事にしましょうか。
博士:結局、一緒じゃないか。まあ、飲みに行く位は良いが、はでな行動を慎むようにな。それと帰りのタクシーには気をつけるように。・・・・うん、君だけ行かせたんでは心配じゃから、わしも付いていく事にしよう。
助手:なんだかんだ言って、博士も行きたいんですね。博士も今は単身ですからね。
博士:わしの場合、単身という事とは関係ないぞ。あくまで君のお守りとして・・・
助手:まあ、いいですよ。その代わり、いつまでもカラオケのマイクを離さず、帰ろうとしないのは止めてくださいね。お守りどころか、私の重りにならないようにしてくださいね。
博士:いつ、そんな事したか? 確かに君は軽いからな。君の危険度の高い行為をおさえるためにも、重石(おもし)になる事にしよう。

 


コメント

このブログの人気の投稿

医療落語「博士と助手」オリジナル

南海トラフ地震 関連情報

著書:想像を超えた難事の日々(増刷)