結核の話

1998年3月


助手:博士は、先日シンガポールに逃げていたそうですね。
博士:人聞きの悪い事を言うでない。逃げていた訳では無い。医療事情を視察しておったんじゃ
助手:そうなんですか。こういうご時世だから、逃げ出したのかと思ってましたよ。
博士:失敬な。病院やクリニックを見てきたんじゃ。
助手:それで、どうでした?
博士:ジャカルタも確かに、医療事情はここ数年めざましく進歩しておるが、シンガポールの最先端の施設や看護にはまだまだ及ばない。シンガポールは日本より進んでいる部分もあるでな。
助手:そうですか。ジャカルタも結構良くなってきたと思いますけどね。
博士:まあ、たいていの疾患であればジャカルタでも大丈夫じゃが、合併症や慢性の持病などを伴う場合には、問題がある。
助手:ジャワ人看護婦の笑顔は魅力的ですけどね。でもそれだけではいざという緊急時には間に合わないということですかね。ところでシンガポールでも、熱帯病は流行しているんですか?
博士:シンガポールは、ジャカルタで問題になるような熱帯病の報告は非常に少ない。感染症は保健省に届け出が義務づけられておるが、これによれば、1997年の1年間で、腸チフスは76件、A型肝炎も124件しか報告されておらず、ジャカルタの比ではない。デング熱に関しては1997年にはシンガポールでも流行があり3500件報告されておるが、デング出血熱は76件しか発生していない。
助手:ジャカルタとは大分状況が違うようですね。数が2桁位違いますよね。
博士:そうじゃな。むしろシンガポールは日本に近い感じじゃ。そうそう、在留邦人がよく利用しているクリニックも身に行ったんじゃが、そこの医師の話で、インドネシアから健康診断目的でシンガポールに受診しに来る邦人の中に、時に結核がみつかるとの事じゃ。
助手:結核ですか。インドネシアには多いのですか?
博士:保健省の報告によれば有病率は10万人あたり240人程度じゃ。
助手:そうすると、人口2億として48万人、ジャカルタ市だけでも2万人ですか。すごい数ですね。
博士:街に溢れておるな。咳が続いた位では病院に行かないでジャムーや風邪薬などで済ませているインドネシア人は多いな。また、病院に行き結核の診断を受けたとしても治療を十分に行なっていない例がある。結核に初めて感染した場合、最低半年間は治療を続ける必要があるんじゃが、症状が無くなったからといって勝手に医者に行かなくなり薬を止めてしまう例が少なくないと聞いておる。
助手:医療費や薬が高いためでしょうかね。
博士:それもあるじゃろうな。結核は中途で薬を止めてしまうと再燃、再発率が非常に高くなり、また再発した時に薬が効かなくなる耐性と呼ばれる事態が生じてしまうんじゃ。正確には、結核菌が薬からの攻撃を防御するために、突然変異を起こしたり薬剤耐性因子を他の細菌から獲得する事により、薬に対する抵抗性を獲得する事を耐性と呼んでいる。
助手:耐性ですか。結核菌も生き残るためにいろいろと努力しているんですね。まあ、そうすると初回の感染時、結核菌が耐性を獲得する前の段階で、きちっと治療する事が重要という事ですね。
博士:その通りじゃ。それとまずは感染しないように注意する事が肝心じゃ。
助手:感染しないためには、どんな事に注意すれば良いのですか?
博士:結核は感染性のある患者が咳やくしゃみをする事により放出される飛沫に含まれている結核菌を吸入することで感染する。
助手:咳、くしゃみでうつるんですか。
博士:そうじゃ。そしてこの感染は、患者と密接に接触した場合にリスクが上昇する。
助手:密接に接触というと、車の中は危険ですね。
博士:その通りじゃ。ドライバー、家の使用人についても採用時や年1回ぐらいの健康診断を受けさせて定期的にチェックする必要がある。
助手:でも、こちら側に抵抗力が十分あれば、接触しても感染しにくいんでしょ。
博士:確かに接触しても抵抗力が十分あれば、感染しない。感染したとしても免疫力があれば発病までにはいたらない。従って、免疫力の低い乳幼児や老人、胃潰瘍や糖尿病などの余病のある人、精神的ストレスの多い人、栄養状態の悪い人、免疫抑制剤を使用している人などは感染し、発病しやすい。
助手:それじゃ、日頃から体を鍛えておくようにすればそれ程心配ないですね。
博士:ところが、そうとばかりも言えん面があるんじゃ。最近、日本では20ー30代の若者、それも看護婦を中心とした医療従事者の感染が問題になっている。現代の日本では若年のほとんど、具体的には30才の年令で94%が結核未感染の状態じゃ。この事は高齢者が再発した場合に身近にいる若者はその影響を直接受けやすい事につながる。
助手:そう言えば、宮城の病院で看護婦が結核で死亡した事件が報道されていましたね。日本の若者は生まれてから一度も結核の感染を経験していないから、患者に接触した場合に感染しやすいという事ですね。
博士:そういう事じゃ。日本で結核は最近むしろ増加しているとの見方もある。
助手:日本では結核はほとんど無くなったのかと思っていましたけどね。
博士:戦後の衛生事情の改善、結核対策が功を奏し、結核死亡率は人口10万人に対して1918年の257を最高に、1993年には2.6までに年々低下した。しかし1995年の死亡率も2.6と横這いであり、その年の結核患者の新規登録数は4万3千人、死亡者数も3千人じゃ。他の先進国に比べて日本の罹患率はまだ飛び抜けて高い状況にある。人口10万人に対する罹患率はノルウェー5.8、スウェーデン6.1、カナダ7、 米国9.3じゃが、日本は35.7という状況で、ユーゴの36.7、ハンガリーの41に近い。
助手:結核に関しては東欧諸国並なんですね。どうして日本で患者が減らなくなったのでしょうか?
博士:横這いになってしまった原因は人口の高齢化も関係しているが、それだけではなさそうだ。途上国での罹患率は日本の数倍と考えられるから、人口の流入の影響もあると考えられている。そうだとすれば今後も益々増加していく事が予想される。先ほどの看護婦の例のように集団感染も増えている。よって、体力のある若者だからといって油断は禁物じゃ。
助手:結核になると血を吐くんでしたよね。よく昔のドラマでやってますけど。
博士:それは、正確には血液の混ざった痰を出す喀血とよばれる症状じゃ。胃などの消化管からの出血は吐血と呼んで区別している。映画で見るような大量の喀血は今はほとんど見られない。初期には微熱、寝汗をかく、食欲不振、倦怠感といったあまり特異的でない症状の事が多い。その後、咳が長引く、血痰が出るというので調べてみたら結核だったという例が最近は多い。
助手:咳がどのくらい続いたら、検査した方が良いのですか?
博士:風邪薬などを服用しても2週間以上治らないようであれば、念のため調べた方が良い。
助手:胸のレントゲンを撮れば良いのですね。
博士:加えて痰の検査が必要じゃ。ツベルクリンも有効じゃ。
助手:ツベルクリンと言えば、小さい頃やりましたよね。陰性とか陽性とかいって。そういえば、陰性の場合にはBCGワクチンを注射しましたよね。BCGは結核のワクチンですよね。ワクチンを打っていても感染するんですか。
博士:BCGによる免疫は、肝炎などのワクチンの場合と異なりそれほど強力なものでは無い。子供が結核に感染しても、それによる髄膜炎などに重症化するのを予防する効果があるが、それ以上のものではない。それにこの免疫効果は年々減弱する。
助手:そうなんですか。BCGを打っていれば安心というわけではないのですね。結核の治療の方はどうなっていますか。
博士:結核菌の感受性を検査して、抗結核薬を4剤併用し6ヶ月間というのが基本じゃ。治療が失敗する原因の多くは、治療の中断ないし不完全な治療にあるから、6ヶ月間きっちり行わないといかん。
助手:そうすると使用人の検診で結核が見つかった場合には、仕事を止めさせる事も考えなければなければなりませんね。
博士:かわいそうだが、それも致し方ない。何度も言うが、中途半端な治療は薬剤耐性、つまり薬が効かなくなる事に繋がるから、本人やその家族、さらにはインドネシア全体の結核治療にとっても良いことは無い。使用人の場合にはしっかり説明して納得させ、必要に応じて治療費の援助をしてやるのが良い。
助手:それにしても、半年間の入院はきついですよね。
博士:ずっと入院している必要はない。痰から結核菌が排出されなくなれば他人に感染させる危険はない。具体的には痰の塗抹検査が陰性になれば退院できる。通常の入院は日本ならば3ヶ月位じゃ。
助手:それでも長いですね。
博士:まあ、なってしまった場合には、あきらめてゆっくりと静養するんじゃな。遠藤周作氏もその体験から述べていたように、結核による長期の療養期間は決して無駄ではないかもしれん。じっくりと人生を見つめ直す良い機会になるかもしれんしな。
助手:そうですね。長い人生において半年や1年位、ゆっくりと人生を考えるのも悪くないかもしれませんね。
博士:まあ、君の場合は、人生を振り返る程の成果はあげておらんから、むしろもう少し馬力をあげてもらいたいと思うがな。
助手:厳しいですね。まあ取りあえず、英気を養うために私もシンガポールに行ってみます。当地は治安も悪くなっているし。
博士:なんじゃ、それは。ちっとも脈略が無いな。それに、歴史的な動きのある時期じゃから、当地に残って、それを見届けるのも良いかもしれんぞ。
助手:体制が変わりますかね。
博士:わからん。しかし、この国も結核における治療の場合と同じ問題をかかえていると言えるな。
助手:?? 難しいですね。結核の薬とインドネシアの政治とどう関係があるんですか?
博士:結核治療において薬剤耐性を防がなければならんのと同様に、この国もファミリービジネスが闊歩する様なやくざな体制だけは、どうしても避けなければならん、という事じゃ。
助手:薬剤耐性とやくざな体制ですか。やー、今回は実に示唆に富む落ちでした。

 


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